窯見聞録
古代 (2)

update:2018/07/13

では、前回に引き続き、古代の須恵器の窯の話。代表格である陶邑窯跡群について、発見されている構造などをみていきましょう。

大阪にある陶邑窯跡群は、1000基以上あったと推定され、古墳時代から平安時代まで稼働していた最大規模の須恵器窯群です。ちなみに、当時は陶を「すえ」と呼んでおり、陶器はすなわち「すえのうつわ」でしたが、須恵器が作られなくなって長い年月が流れました。そこで、現在の陶器(とうき)と同じ漢字では紛らわしいので、「すえ」という訓読みを残し、須恵という字が当てられ、須恵器と呼ぶようになったのは昭和になってからの話です。

さて、須恵器窯の構造ですが、陶邑窯跡群を例にとると、斜面を掘り、天井を覆った細長いトンネルをつくるというものです。斜面の下側のトンネル口から薪を投げ入れる「焚き口」とし、その向こうに薪が燃える「燃焼部分」、器が焼かれる「焼成部分」が続き、さらに煙が流れる「煙道」へ、そして斜面のてっぺんにあたるトンネル出口から煙が出る、原始的な「煙突」となります(註:分かりやすくするために煙突と表記しますが、煙が輩出しやすいように筒状の突起などを作っているわけではありません)。
これらの各パーツは、壁などで区切られているわけではなく、再三書いているように、斜面を利用した、単純なトンネルです。

この様式を窖窯(あながま;以後は穴窯で表記)と呼びます。ご存じと思いますが、炎は上昇します。よって、トンネルの低い位置にある炎は、上へと登っていきます。このため、この単純な構造である穴窯も斜面を使っているという点から、登窯という呼ばれ方をすることもあるのですが、前稿のとおり、本稿では、斜面を利用したトンネル状で区切りのない、いわゆる単室式登窯を「穴窯」として統一します。

ところで、前述の陶邑窯跡群は、近畿エリアで最大規模の須恵器窯として有名ですが、他にも多くの窯跡が、西日本を中心に多く点在しています。代表的なところでは、愛知県の大アラコ古窯跡や、岐阜の老洞・朝倉須恵器窯跡、備前焼のルーツとも呼ばれる、岡山の寒風古窯跡群、山口の陶陶窯跡、福岡の牛頸須恵器窯跡など。
そして、古陶磁ファンなら、一度は耳にしているであろう、名高い猿投窯(さなげよう)です。愛知県に広く分布するこの古窯跡群は、須恵器のみでなく、鎌倉時代までの700年以上の歴史があります。1000基以上の窯跡の中には、穴窯としても技術の推移が見られます。
(→詳しくは、「古窯跡リスト」を参照してください)

ちなみに、陶邑窯跡群が平安時代で終わってしまうのは、須恵器の終焉という理由というより、大量の薪を必要としたため、森林を切り尽くしてしまったと考えられています。実際、史書に「陶山の薪争い」という事件があったと記録が残っています。古代の穴窯はかなり燃費が悪かったようです。

ということで、今回の古代編は平安時代までです。次回は、平安末期の穴窯から、中世期の大窯時代へと向かいます。
 

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(2011年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)