年表的やきもの考
中世・室町前期まで

update:2018/03/30

さて今回から、歴史という視点で「やきもの」のキーワードを上げてみましょう。日本の文化を知る上で切っても切れない「やきもの」の歴史は、日本史の支流としても、興味深いものです・・・しかし、あまりにも長い歴史なので、今回も駆け足で。

まずはじめは、このブログの最初にも取り上げた土器。日本の土器の歴史は1万年以上とされています。縄文土器・弥生土器と出現しますが、今回は「歴史」ということで、先史時代は割愛させて貰います。そこで、最初のキーワードは、「土師器(はじき)」です。

◎土師器と土師氏

古墳時代に、野見宿禰(のみのすくね)を祖とする土師氏(はじし)という豪族がいました。『日本書紀』によると、野見宿禰は古墳にいれる埴輪を作った功績から、「土師」の性を与えられたとされています。渡来系という説もありますが、はっきりしたことは分かりません。いずれにしても、古墳時代以降、律令制の下で土器や埴輪を作る集団を「土師部(はじべ)」と呼び、彼らの作る土器が「土師器(はじき)」です。この土師器は中世の「かわらけ」と呼ばれる食器までつながっています。

もう一つ、古墳時代に朝鮮半島から伝播したとされる須恵器(すえき)という種類の土器があります。これを作る集団は「陶部(すえべ)」と呼ばれていたそうですが、土師部に比べて短期間だったようです。それらは民間の窯へと転換していったと考えられ、「六古窯」に代表される、中世陶器へと移っていったようです。

◎六古窯と壺・甕・擂鉢

日本六古窯という言葉があります。中世時代の6大窯業地として、戦後の陶磁研究者が提唱した言葉ですが、現在ではもっと多くの窯場が発見されています。中世の時代には、日本の各地で盛んにやきものが焼かれていたということです。もちろん、多くの消費があったわけで、つまりは庶民が使っていたということになります。事実、室町時代には大窯時代と呼ばれ、最大規模になると、50メートル以上の窯が発見されています。その窯に器をびっしり詰めて焼こうとすると、気の遠くなるような薪の数と、人員、日数が必要になったことでしょう。それだけ大量の需要があった証拠です。

この中世の3大やきものが「壺・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)」です。農耕民族である日本人らしいラインナップ。穀物や水を保管したり、すり潰したりするための器たちで、どの家にもあったことでしょう。実際、ちょっと前の田舎の農家の土間には、甕が埋まっていたり、軒下に壺があったりしていたものでした。・・・といっても、筆者も聞いた話でしかありませんが、かなり最近までということは分かっています。もちろん、今でもそんな家が残っているでしょう。

◎唐物崇拝

日本各地で、壺・甕・擂鉢が作られていた時代、一方の貴族たちは、そんな重いものは人任せでした。前述の土師器は食事の折など日常のシーンで使っていたでしょうが、当時の彼らにとっての興味の対象は中国製のやきもの「唐物(からもの)」でした。この唐物趣味というか、唐物崇拝は、遠い中国文化への憧れだったのです。実際、青磁の神秘的な透明感ある青色や天目茶碗の夜空の星々のような不思議な煌めきは、日本では作ることの出来なかったものですし、手の届かない憧れとなったのも想像に難くありません。

ちなみに、現在でも茶道を学ぶとき、「唐物」という段階は、初級ではありません。いわゆる、格の高い点前(てまえ)。まして、天目のような貴人のための点前を学ぶに至るには、かなり時間(とお金)が必要です。

長くなってきましたので、今回はここまで。次回は、室町中期の侘び茶の誕生からはじめます。
 

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(2010年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)