年表的やきもの考
近世 (2)

update:2018/04/27

前回は、「近世のやきもの」という大きな枠で、大きく流通した生活用品としてのやきもの、茶の湯の世界の流行を紹介しました。今回は近世の続きとして、やきもの史として産業面・技術面から大きな流れをリードした有田焼(伊万里焼)と京焼に的を絞ってご紹介します。

そして、この時代で「やきもの史」における大きな事柄は、磁器の焼成の成功です。そこでまずは有田の磁器の話からはじめましょう。

◎磁器と柿右衛門、伊万里港

日本における磁器のはじまりは、朝鮮半島からきた陶工が日本で磁器の原料を採掘し、磁土による白い器(白磁)の焼成を成功させたとされています。その白磁に、中国や朝鮮の青一色で絵付けした器(染付:そめつけ)を手本に絵付けした器が作られました。これは初期の「古伊万里」です。

その後、初代酒井田柿右衛門が白磁に赤の顔料で絵付けをした赤絵磁器を日本で初めて作りました。この柿右衛門様式の華やかな器は、現在でも高級品として有名ですが、当時も一般の人向けではなく、主に輸出が中心の高級品でした。ちなみに酒井田柿右衛門の13代目と14代目は色絵磁器の人間国宝に指定されています。そして、現在は15代目に移り、活躍中です。

ところで、この古伊万里も柿右衛門も、産地は佐賀県有田。現在、有田町の磁器は「有田焼」と呼んでいます。では、なぜ「伊万里焼」なのか? これは、伊万里港で積み込み、流通させていたから。伊万里焼の定義は曖昧で、広義だと、九州北部のやきもの(肥前磁器)全体になる場合もありますし、狭義では、有田焼=伊万里焼とも考えられます・・・ややこしいですが、現在のような商標登録の概念がなかった時代の話ですから。

逆に、明確に商標登録的な定義の下に作られたやきものもあります。それが「鍋島」です。現在の佐賀県伊万里市にあり、鍋島藩が献上のために、徹底した技巧の精度を高め、ルールの下に作られた磁器です。

しかしながら、鍋島は藩窯だったが故に、明治初頭には途絶えてしまいました。その鍋島を再興したのは有田の名家である今泉今右衛門。11代目と12代目が色鍋島を復興し、色鍋島技術保存委員会を結成、12代自身は色鍋島の人間国宝に指定されました。当代の14代目も有田で色鍋島を制作しており、人間国宝に指定されています。

ちなみに、当時の有田も伊万里も鍋島藩内。現在でも両地で磁器が作られていますが、技術的にも様式的にも、違いを語るのは難しい印象です。

・・・近世の項の最後として、次回に京焼を紹介します。
 

将軍と鍋島・柿右衛門

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(2010年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)