はじまりの土器 (2)

update:2018/02/23

前回は、土器のイメージ、ざっくりとした概念的なものを書きましたが、ここではもう少し踏み込んだ「土器」の話です。

土器も長い間に変化してきました。
荒々しく、厚手に作られていて、形もユニークな縄文土器。薄作りで、端正なフォルム、農耕社会の弥生土器。

それらの焼き方は原始的で、薪などを積んで燃やすだけの野焼(のやき)です。この方法ですと、焼くための温度も上がりませんし、長時間焼くことも難しいのです。そこで、「窯(かま)」が登場します。

古墳時代以降の土器は、窯で焼くことにより温度の上がった「土師器(はじき)」、そしてさらにしっかり焼いて丈夫になった「須恵器(すえき)」と、次に直接つながる、陶磁器の原型が誕生してきます。

やきものは、技術が徐々に進歩していきましたが、昔の陶工たちは、常により良いやきものを目指して研究ししてきており、一方で、後ろを振り返ることをあまりしなかったかもしません。西洋のルネッサンスのように、当時の芸術家たちが古代のギリシャやローマに目を向けたのは15世紀頃。日本では室町時代で、新しい「やきもの」が創造されていた時代です。

日本で大きな文化潮流として、「古」のやきものを作り手たちが意識したのは昭和以降です。それが、現代の陶芸家たちと、かつての陶工たちとの相違点の一つと言っていいのではないでしょうか。そのことは、実は現代の陶芸家たちの活動や言葉からも伺えます。

古いやきものに魅せられたと言えば、まず最初の登場する有名な言葉に「桃山復興」があげられるでしょう。備前の人間国宝となった金重陶陽や、志野・瀬戸黒の人間国宝の荒川豊藏は桃山陶に魅せられた陶芸家です。
金重陶陽は江戸時代以降、細工物が中心となっていた備前焼に、桃山備前の茶陶を復活させ、「中興の祖」と呼ばれました。一方の荒川豊藏は、桃山時代に誕生し、その後失われていた美濃の志野や瀬戸黒を窯跡調査から研究をはじめ、復活させることに成功したのです。

桃山陶は16〜17世紀ですが、陶陽や豊藏以降、現在に至る陶芸家たちの中には、より個性や創造性を求め、新しい陶芸を追求するにあたり、さらに古いもの、やきものの原点まで注視する人達が現れてきました。

その原点とは、もちろん「土器」です。作家たちの言葉を聞くと、縄文土器により魅力を感じている方もいれば、どちらといえば弥生土器に感銘を受けている場合、あるいは縄文の精神性と弥生の造形性、という話も聞きます。

・・・もちろん、すべての作家ではありません。桃山のやきものを頂点と思う人もいれば、中国や朝鮮半島のやきものに憧憬を抱く人、またある人は、まったく異分野に陶芸の可能性を求める人もいます。ですが確かに、原点である「土器」に特別な想いを抱く方も多いのです。そして、実際に土器を作ってみたり、最も原始的な野焼をしている作家もいるのですから。

さぁ、だんだん「土器」に興味がわいてきたでしょうか。

…次回は、「陶器」について、書いてみたいと思います。

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(2010年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)