update:2018/04/20
さて、いよいよ近世、江戸時代にはいってきました。
近世のやきものと言えば・・・、全体の印象としては、多彩な意匠と、庶民から武家までの、現在に通じる日用づかいのものから豪華絢爛な大名道具までの多様な「器種」が生み出された時代です。
具体的に話しましょう。江戸時代の経済は江戸と大阪が中心でした。しかし、もともと「やきもの」は都市部には向かない産業です。なぜなら、地の利が必要だから。材料となる良質な粘土質の土も、窯を築くのに適した斜面も、窯を焚くための薪も、開けた都市部では手に入りにくいものです。ですから、古い窯業地は基本的に、山の麓や山中にあり、兵庫県の丹波焼の里や滋賀県の信楽焼など、現在でも、まるで隠れ里のような錯覚を持たす場所もあります。
・・・ということで、新しく開かれた江戸の町、御符内(江戸の町の境界を明確にするのは難しい)はもとより、品川や千住といった近くの宿場町に至っても、窯業地と呼ぶ場所はありませんし、名を残した陶工もいません。一方の大阪も同様です。巨大消費地であって、産地ではないわけです。
◎灘の銘酒と丹波焼の徳利
では、やきものはどこからもたらされたのでしょうか? 昔から日本全国でやきものは焼かれていますし、前回のブログでも書いた「やきもの戦争」の後、大名(藩)の庇護の元に、新たな窯場も多く開かれました。大名が使うためのもの、幕府への献上用もあれば、庶民のための大量生産品もあります。
有名なところでは、前述の丹波焼の流通。現在でも有名な酒の産地「灘」に地理的にも近く、丹波焼の徳利は酒とともに全国で消費されました。実用的なものからユニークな意匠のものまで、形もさまざま。運ばれる船の中で安定するように底を広くどっしりとした舟徳利や、町民が酒を買いに行くための徳利(時代劇で徳利を抱えて酒屋に向かうシーンを思い出してください)、洒落た小料理屋にふさわしい絵柄のものや、店の屋号がはいったものまで。大都市の町民たちは、船にのって運ばれてきた「やきもの」を買っていたのです。
◎小堀遠州のきれい寂
桃山時代の茶人主導による「やきもの」の隆盛は、江戸時代にはいっても残ります。ただし、やきもの産業全体の大きな潮流と言えるほどではないと思います。
有名なのは、『雲州名物帳』によって中興名物を示した大名茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう:17世紀)。その遠州好みを称して「きれい寂」と言います。
・・・とここまでは、教科書的な話ですが、この「きれい寂」というのは、個人的には非常にわかりにくい。解説をいろいろと見てみると、寂(さび)の中に華やかさがある、または華やかさの中に寂があると書かれています。この2種類の表現は、同じようでいて感じ方は結構違いますよね。これも筆者を悩ませています。
世阿弥は「桜は散るから美しい」と言いましたし(註:もっと古くは万葉集か)、素直に美しい、わ〜、と喜べない日本人の気質が昔からあるのかもしれません。でも、私は満開の桜、本当に美しいものに「寂」を感じることは、あまりないので。。。
このきれい寂の時代、それまで土の色を全面に押し出した素朴で力強いやきものであった信楽や伊賀、丹波、高取などが、窯の持ち味を生かしつつも“はんなり”とした茶道具が作られました。また、釉薬を使わない「焼締」の筆頭格である備前焼でも、表面の土肌を隠すように色を付けた「彩色備前」なども一時期作られました。この備前焼は遠州好みとして名が上がるわけではありませんが、これも流行を意識してということにはなるでしょう。
いずれにしても、きれい寂を定義し、選定するのは我々凡人には難しいところ。きれい寂=遠州個人の好みということで、日本の文化史の一躍をになう潮流の一つと捉えるより、ファッションリーダー・遠州の作ったブームくらいに考えると分かりやすい気がします。実際、筆者が茶道を学ぶ過程で、「きれい寂」という言葉を使った覚えはありません。ぜひ一度、遠州流茶道の方にこの辺の教えを請いたいと思っているところです。・・・といっても、現在の家元制に基づく感覚では、別の流派に入門しないと学ぶ機会が得にくく、かといって入門して一から学び直すということは金銭的にも、道義的にも面倒ですね。
さて、次回は引き続き近世。大きく発展した近世を代表する窯場、有田と京を紹介します。
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(2010年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)