update:2018/11/02
窯の話も近現代まで来ました。まずは、文明開化のお話からです。
江戸時代の約250年間というもの、「窯」に関しても劇的な変化はなく、用途や土地の状況によって、多少の構造やサイズの違いはあるものの、登窯(のぼりがま)という、土で築いた窯を使い、薪で焼いていたのです(前項を参照)。
そして、明治に入り、西洋文化が「やきもの」にも流れ込みました。それは、技術にも思想にも劇的な変化と言えるでしょう。すなわち、西洋における産業革命において手工業が変化したように、「窯業(ようぎょう)」という概念が生まれ、一方で西洋文化における芸術という概念から「陶芸」という概念が生まれたのです。しかし、それは、産業論であったり、工芸論だったりしますので、今回は「窯」という技術の話のみに絞ります。
さて、イギリスにおいて18世紀からはじまった産業革命といえば、蒸気機関車とか、蒸気船をイメージしませんか? つまり、石炭というエネルギーの発明が産業革命を生んだのです。そして、窯業においても、石炭窯が登場し、それが明治にはいって日本にも輸入されました。薪よりも価格が安く、薪よりもパワーがあるので効率よく温度があがりました。ただし、機関車と同じで煤煙がすごく、環境面からも次の燃料へと移っていきます。それは石油の発明で、これも産業革命と同じです。
興味深いというか、考えてみれば当たり前のことですが、近代のエネルギーの変遷がそのまま「窯」の変遷へとつながっていきます。石炭=石炭窯 → 石油=灯油窯 → ガス=ガス窯 、 電気=電気窯というわけ。そして、現在はマイクロ波窯がありますが、多数派は電気窯でしょう。
先ほど、考えてみれば・・・と書きましたが、なぜ忘れがちかと言えば、現在は薪窯もあるし、灯油もガスも、陶芸家の選択肢になっているからです。工業製品としての陶磁器を考えた場合は、各窯業メーカーによってガスや電気が使用されているでしょうが、個人レベルの制作活動においては、窯の選択も伝統であったり、個性であったりします。
もちろん、どこでも好き勝手が出来るわけではありません。薪を住宅街で焚く訳にはいきませんし、ガスだっていやがられる場合もあります。登窯の使用を禁止した条例ができて、京都市街では登窯の煙が上がることもなくなりました。一方で、岡山の備前焼の中心地である伊部では、今でも煙が上がり続けています。
では、それぞれの違いは?というと、はっきり言って、一口で言えるものではありません。各作り手たちは、目指す「焼き」があって、それに向かって「窯」を選択しているのです。
例を挙げましょう。もし、ある陶芸家が桃山時代の備前焼を目指すとします。それを目指すために本格的にやろうとすれば、当時の状況に近い窯や材料を選択するのは一つの手段でしょう。しかし、もし現代的な、あるいは自分の個性を表現するための備前焼を目指すとしたら? 現代的な窯や材料の方が自分らしいと思えば、それも本格なのです。
もちろん、備前焼を見れば、薪とガスや電気の焼きでは、見た目にも結構違いがあります。備前焼は釉薬(ゆうやく;うわぐすり)をかけず、炎や薪の灰が直接あたるように窯の中で焼かれます。他の燃料では灰は人工的に入れないと発生しません。でも、その違いは善し悪しではありません。
もう一つ例をあげましょう。志野焼です。志野は桃山時代に美濃(岐阜)で一時期のみ焼かれました。それを研究し、復興させたのが昭和の人間国宝・荒川豊藏です。豊藏の窯は豊藏記念館に現在も残っていますが(一般見学は不可)、志野の窯跡があった場所に築かれた登窯。美濃のもぐさ土で成形し、長石を原料にした釉薬をたっぷりかけて、独特の白にほんのりとした緋色で色づいた志野を焼きました。
しかし、現在の志野焼の人間国宝はあえてガス窯で志野を焼くことで有名です。つまり、桃山の志野とも、豊藏のとも別の「志野」を目指しているからなのでしょう。
同じような話はまだまだたくさんあります。色絵でも、白磁・青磁、信楽焼でも・・・。過去から現在までのさまざまな技術を選び、次へとつなげていくことが現代陶芸の多様性であり、楽しさでもあります。
各地で、さまざまな陶芸家の話を聞くにあたって、どんな窯を使っているか、そしてその理由は、と伺うのは必須項目です。言う言わないはさておき、明確な理由を持っていることは確かです。灯油窯を使っている人が、電気に変えたら、釉薬の調合にしても、焼く時間や温度にしても、全てを変えなければならないでしょう。理由がなければ出来ないことです。
さあ、窯の話もひとまず終結です。
(2011年初出、転載・加筆修正)
追記。。。
「やきもの考」はしばらくお休みです。
次回は「陶磁器の色いろ」として、やきものの色について考察をしていく予定です。