update:2018/04/06
さて、今回も室町時代から話を始めます。茶の湯の隆盛へと向かう時代です。
茶の湯と言えば、千利休とその弟子たちが有名ですが、利休は創始者ではありません。利休に至るまでの道を造った茶人たちが室町中期に現れました。当時は、唐物が中心で、煌びやかで、日本のやきものには目も向けなかった頃です。
◎侘び茶の創始〜新しい美意識の出現
唐物崇拝に異を唱えた人物が現れます。室町時代の侘び茶の創始者・村田珠光(むらたしゅこう)です。
中国渡りの唐物より、日本の窯場である備前(岡山)や信楽(滋賀)などの見た目に地味な和物のやきものに、禅の精神性を見いだした侘び茶を広めました。この人物に関しては分かっている事が少ないのですが、その後、武野紹鷗(たけのじょうおう)が受け継ぎ、さらに千利休が大成させたとされています。
この頃(室町時代後期)から桃山時代にかけて、歴史ある備前焼や信楽焼などは茶陶という文化で中興期を迎えました。といっても、茶の湯の主役である茶碗というより、むしろ、水指(みずさし:茶席において茶釜に水を出したり茶碗などをすすぐために水を入れておく器)や、花入が主流だったようです。そして、和物の茶碗は、この時代になって、茶人好みで新しいスタイルのものが作られるようになりました。
◎千利休と樂焼
この「名物」に対抗したというわけではありませんが、それだけではもの足りず、自分の世界観を作り出すために生まれたのが、千利休の樂茶碗です。千利休と言えば、茶の湯を大成させた大茶人。織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務め、その秀吉によって亡くなった人物です。
この人のことは、色々な本やドラマで描かれていますが、話半分としても、なかなかのプロデューサーだったようです。そのプロジェクトの一つが「樂焼(らくやき)」。ロクロなどを使わず、手で形を作る「手捏ね(てづくね)」で成形し、内窯(室内の小さな窯)を使って低温で焼いた、柔らかい陶器です。樂家初代の長次郎が利休の指導により始めたとされる手法ですが、当時は大きな窯で、大量に焼いた時代でしたから、その点だけでも特筆もの。さらに利休の美意識が反映されているとされる、黒(黒樂)や赤(赤樂)という、シンプルなモノトーンの世界観も新しいものでした。
長次郎は生没年も不明であり、その成り立ちに関しては謎の多いやきものです。とにかく、この樂家は現在の15代目まで代々、千家の茶碗を作る家として、そして当代は現代陶芸の人気作家として、現在まで続く名家です。
ちなみに、樂家は代々樂吉左衞門という名を襲名しますが、作家名ではありません。本名です。襲名時に戸籍も変えるのです。さらに、樂家は一子相伝。しかし、親が子に直接指導するわけではなく、原則として書き物も残しません。樂家に伝わる歴代のやきものを見て、学ぶのだそうです。ですから、現在まで15人の樂家当主は、それぞれ表現方法も技術も個性に溢れています。
◎樂焼以外の和物茶碗
樂家が現在まで途切れる事なく続いていている一方で、やはり桃山時代に生まれた、美濃焼(岐阜県美濃地方のやきものの総称)は、あっという間に作られなくなりました。その志野茶碗や瀬戸黒茶碗、織部茶碗は、現在に名品が残されていますが、中でも国宝・志野茶碗《卯花墻(うのはながき)》が筆頭です。
これら美濃焼の茶器は、特に異彩を放っています。楽焼もそうですが、とにかく、丁寧に形を整えようという意識が見られません。青磁や白磁のような中国のやきものは、皇帝が使うものを頂点とした完璧な造形美です。乱れることのない、冷たいまでの完璧なフォルム。対して、樂焼や美濃焼の茶碗は、手跡が残るような、自由気ままに、勢いで作ったような、無骨な荒々しいフォルム。中国陶磁の静に対して、動の器。溢れるエネルギーが押さえきれずに表出したような大胆な造形です。美濃焼の他にも、当時の茶人の好みで信楽や伊賀焼、備前焼の野性味溢れる器も人気でした。
「芸術は爆発だ」と岡本太郎は言いましたが、それは西洋文化が多分に吸収された現代の話。日本人は感情を爆発させるような民族でとは言い難いし、芸術性も感情を押し殺した、静寂のある美が馴染みやすい。芸術が爆発した日本画なんて、イメージしづらくありませんか? しかし、やきものには「芸術が爆発した」時代があったのです。ほんの一時ではありましたが。
いずれにしても、桃山時代の茶陶はまさに黄金時代でした。あっという間に失われてしまいましたが、昭和に入って桃山復興を目指した陶芸家たちが、桃山の茶陶を研究し、さらに独自の茶碗を生み出す努力を続け、現代陶芸における茶碗へと続いています。
さて、次回も引き続き桃山時代。今回は話が長くなるのであえて避けた戦国武将達を視点を移します。
(2010年初出、転載・加筆修正)